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【社長失格】板倉雄一郎氏に出会ったあの日のこと

こんにちは。無職から派遣看護助手に転職した、ままるです。

2016年現在では、インターネットは我々の生活の欠かせないものになっています。

そしてネットはさらに進化を続け、この先もあらゆる意味で世界を支え、変えて行くことは間違いないでしょう。

しかし、このネットの進化はここ25年位の話です。

この四半世紀に、インターネットという革新的な業界を作り上げた偉人は、国内外に多数存在します。

今日はそんなひとりの偉人の話です。

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板倉雄一郎事務所: 板倉雄一郎事務所アーカイブ

板倉雄一郎氏とは

日本のインターネット創設の立役者として、ソフトバンク孫正義氏やサイバーエージェント藤田晋氏、元ライブドア堀江貴文氏、GMO熊谷正寿氏などが有名ですが、彼らの活躍した同期に、時代の寵児となった、元ハイパーネット板倉雄一郎氏がいます。

 

板倉さんは1990年代に、PC上のブラウザの一部に広告を表示させ、その広告料によってインターネット通信費を無料にする「ハイパーシステム」を開発、日本はもとより海外でも一躍有名になり、アメリカナスダック上場寸前まで行くも、日本経済の急速な失速「貸しはがし」により会社は倒産、自身も数十億の負債を抱えて自己破産。

まさに天国から地獄のジェットコースターのような自身の半生を「社長失格 僕の会社が潰れた理由」という著書として1998年に出版、ベストセラーになりました。

㈱ハイパーネットの凄さ

1990年代初頭は、インターネットの接続はダイアルアップが主流だったわけです。

今の10代20代のひとには信じられないかもしれませんが、ネットに接続するには電話のアナログ回線を使って「ププププ…」とFAXの接続音みたいな感じで繋げていたんです。

当時はHP自体少なくて、Google検索も一般的ではありません。

動画はおろか画像一枚表示させるのに1分以上かかるものもありました。

さらにその通信費用が馬鹿高い。

これではインターネット自体普及するはずがありません。

そこに目を付けたのが板倉さんです。

ブラウザに企業広告を貼り、その広告収入でユーザーの通信費を賄おうとしたシステム「ハイパーシステム」を開発します。

様々な問題で、このハイパーシステム運用前に板倉さんの会社は倒産する訳ですが、間違いなくこのハイパーシステムは、今のインターネットの広告モデルの先駆けになったものです。

さらに当時のハイパーネットの勢いを象徴するエピソードとして、あのマイクロソフトビルゲイツが、ハイパーネットの買収に実際に板倉さんに会いに来ています。

当時イケイケだった板倉さんは、ビルゲイツのオファーを蹴るわけですが、あの時マイクロソフトに買収されていれば、それはそれで板倉さんの人生は大きく変わったのでしょうね。

さらに当時のハイパーネットの副社長は、夏野剛氏です。

夏野氏はハイパーネット倒産後、NTT DoCoMoの携帯電話サービス「iモード」の立ち上げを行い、その後ドワンゴ、グリー、セガサミーホールディングスカドカワなどで手腕をふるい、現在でも日本のデジタルメディア界の重鎮のひとりです。

今となっては夏野氏の方が有名ですが、夏野氏のルーツがハイパーネットにあったと知る人は少ないと思います。

形にこそなりませんでしたが、ハイパーネットはその事業アイディアもビジネスモデルも人材輩出もあらゆる意味で、「凄い会社」だったわけです。

 

当時のネット業界の世相や経営の繁栄から衰退を板倉さんの巧みな文章で綴られている「社長失格」は経営書としてだけでなく、読み物としてもおすすめです。

フリーランスや起業を考えている10代20代のひとには一度は読んでもらいたい良書です。

 

板倉雄一郎氏との出会い

20代のころの僕は、とにかく優秀な経営者にならなくちゃと必死でした。

日々仕事に忙殺されながらも、空いた時間でビジネス書を読みあさって、先人の経営学を少しでも吸収しようと躍起になっていました。

そんな時に出会ったのが「社長失格」というインパクトが大きすぎる題名のこの本だったんですね。

読み始めると一気に板倉さんの壮絶な経営人生に没入して、とたんにファンになりました。

以前はそれほど一般的ではありませんでしたが、感想を書くWEBサイトが書いてあり、若き日の僕は板倉さんに自分の思いのたけを書いたのです。

まったくリアクションなど期待していませんでしたが、ある日板倉さんからメールの返信がありました。

「いま近くにいるからこれから行っていい?」

当時の僕の店まで、板倉さんが会いに来てくれたんです。

印象的だったのは、彼のその目です。

目の奥に深さがあるというか、あんな目をしたひとには出会ったのは、後にも先にも板倉さんが初めてです。

「これが100億を飛ばしたひとの目か」

板倉さんの第一印象はそんな感じでした。

実物の板倉さんはとても優しくて、僕に色々な話をしてくれました。

もちろん本に書いていないようなことまで、事細かに事業のことを聞けたのは、とても参考になりました。

当時自分の経営に悩んでいた僕への、板倉さんの言葉が未だに忘れられません。

「思い立ったらやってみたらいい。失敗したって全力疾走すれば何かが残るよ。僕のようにね。」

その言葉が、僕の失敗だらけのチャレンジ人生を創ったといっても過言ではありません。

自分が40歳を過ぎた今、あの時の板倉さんの言葉の意味が、少しだけですが理解出来るようになった気がします。

あの時、板倉さんに出会っていなければ、僕は自分の30代という貴重な時間を、全力疾走出来ていなかったのではないかと思います。

あの日、板倉さんに著書にサインをもらいました。

いまでも僕の大切な宝物です。

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まとめ

いかがでしたでしょうか?

サインの写真を見ると、板倉さんと会ったあの日は2001年。

15年も前の話です。

15年前の自分は、経営者としての大成功を夢見る若者でした。

43歳になって事業を辞め、介護士を目指し看護助手として病院に勤める今の自分なんてまったく想像できませんでした。

でもここまで至る経緯に

「失敗したって全力疾走すれば何かが残るよ。」

という板倉さんの言葉に背中を押され、自分の本能のままチャレンジし続けた人生があります。

僕は今まで大した成功はしていません。

ですが、後悔だけはまったくありません。

人生のすべてを自分で選択し、その都度全力疾走してきました。そこで残った「何か」によって次の人生を選択する、それは今後も変わらないでしょう。

これから15年。

60歳になった自分が、いまのこの文章を読んでどう思うのでしょう。

僕はその楽しみの為に、ブログを書き続けているのかも知れません。

 

ご清聴ありがとうございました。